象印 ZOJIRUSHI

会社概要

あゆみ

大阪に「市川兄弟商会」を創立
1918年(大正7年))

上阪
市川銀三郎

創業者 市川銀三郎(兄)

愛知県中島郡朝日村出身の市川銀三郎(兄)と金三郎(弟)。金三郎は電球加工の職人であった。ドイツから輸入されて大いに珍しがられていた魔法瓶に興味を持ち、職人仲間と一緒に中びんを作ったことがあった。白熱電球は真空工業の元祖のようなもので、ガラスで真空の中びん製造と技術的に通じるものがあった。わが国の魔法瓶工業の創始者とされている八木亭二郎も日本電球という電球メーカーに勤務する技術者だったので、魔法瓶工業中びん製造技術は電球製造の技術から発しているといえよう。
金三郎はどうしても自分の手で中びんの製造をやってみたくなったが、魔法瓶の知識を持っていなかった。また、そのころ魔法瓶は高価だったため、一般の家庭には普及していなかった上、国産の魔法瓶は中国への輸出が主体であった。

市川金三郎

創業者 市川金三郎(弟)

大阪で2年間商家に住み込み生活をしていた兄・銀三郎は、弟・金三郎が魔法瓶に興味があることを知り、兄弟で一緒に魔法瓶の製造に取り組む決心をした。製造が弟、兄は販売を担当する役割分担をおこなった。
大正7年、銀三郎・金三郎兄弟をはじめとする一家は、故郷愛知県での生活を清算し、上阪した。5月には、西区九条に適当な住居兼作業所を借りた。一家はささやかな町工場をつくり、入り口に「市川兄弟商会」の看板を掲げた。兄20歳、弟17歳のスタートだった。この90年後、現在の象印マホービン株式会社として発展しようとは想像すらしていなかったことだろう。

初期の事業

金三郎が職人とともに製造を担当し、銀三郎は注文を受けたのち、出来上がったものを自分の自転車の荷台にくくりつけ、割れないように気を配りながら配達した。もともと職人らしく器用な金三郎は、短期間に中びん製造技術をマスターし、失敗も少なくなっていった。
当時の魔法瓶業界の体制は、問屋と呼ばれるアッセンブルメーカー(組立業)に、市川兄弟商会のような中びんメーカーが中びんを売り、金属のケース屋が真ちゅうや鉄板をプレスメッキや塗装した外装(ケース)を売る。問屋はこの両方を組み合わせて魔法瓶を作り上げる、という三者で成り立っていた。魔法瓶屋(問屋)はそれぞれ自社マークを付け、独自のブランドで金物問屋に卸していた。

手吹き

手吹き作業の様子

そのころ日本の魔法瓶は9割が輸出で、国内向けは1割程度にすぎなかった。日本ではまだぜいたく品で、日常生活に使われる習慣は根付いていなかった。
当時の中びん製造は、すべて手吹きの作業である。手吹きとは、竿を手にした職人が、ガラス生地を竿の先に適量巻きつけ、口を丸めて息を吹き、ガラス生地をくるくる回しながら吹き上げて作る。生地のバランスを考えて吹いていても、とたんに割れてしまうこともしばしばである。それだけ中びん吹きは技術的に難しく、職人の腕に頼るところが大きかった。熟練の職人が9人1組で一日がかりで作っても、1.8Lの中びんを500本しか作れなかった。

中びん製造から組立へ

中びんの輸出にはシーズンがあり、冬場は熱い湯がすぐ使えることやクリスマス需要などで魔法瓶はよく売れたが、夏場はさっぱりであった。このように、中びん製造は事業経営の面からみると繁閑の差が大きいところに弱点がある上、市川兄弟商会の場合、一つの問屋だけに納める専属工場であったため、さらに弱点となっていた。

「このままでは大きな発展はない。いずれ問屋をやりたいが、とりあえず専属はやめて、いくつかの問屋を相手に取り組んでみる」
銀三郎は魔法瓶問屋の門を叩き、販路の拡大に努めた。シーズンオフになっても年中手を休めることなく、中びんを作って積んでおく。そうすることで販売量は上がり、商売は軌道に乗った。
大正12年、稲荷町に組立工場をつくって製造部とし、塩草町の中びん工場と二本建で進むことになった。こうして一人前の魔法瓶問屋、アッセンブルメーカーとしての形が整ってきたのである。大正7年に九条に作業所を開いてから5年後のことであった。

海を渡る象マーク
西区川口町

大阪市西区川口町には外国商館が立ち並び、華僑がまほうびんの輸出を手がけていた

念願のアッセンブルメーカーになると、銀三郎は輸出に向けて動き始めた。もともとわが国の魔法瓶工業は、大正時代から昭和初期にかけての輸出で大いに伸びてきた大阪の地場産業である。日本は水に恵まれており、量が豊富なだけでなく生水でそのまま飲めるという環境にあるため、このころの魔法瓶の国内需要はきわめて少なく、製品の九割が輸出されていた。これに比べ、中国や東南アジア、インドなどでは、良質の水は得られない。生水は不衛生で一度沸かさなければ飲用に適さないから、どうしても沸かした湯を保温あるいは保冷する必要があった。こうした事情から、これらの国々では、魔法瓶は生活必需品として早くから利用されてきた。

華僑を訪問

銀三郎は2年に一度、神戸港から上海へ出張していた

大正から昭和にかけて魔法瓶の輸出は、大阪市西区川口町の華商や、神戸の輸出商の手を通じて行われていた。こうして銀三郎は、華商を訪問しては契約を取り、動けば動くほどの見返りを得た。
問屋になると、これまでの中びん屋と違って商標をつける必要がある。銀三郎は、金三郎や家族と相談し、いろいろな案の中から、「ELEPHANT=象」を使うことにした。このとき決まった「象印」が、やがて業界一のマークとなり、現在の社名にまで引き継がれるのである。象は、頭が良く、家族愛も強い。陸上動物で最大の巨体だが、ゆったりとした態度やその容姿は、子供たちの人気を集める。生命力は強く、寿命は長い。こうした象のイメージは魔法瓶にふさわしい。また、当時の魔法瓶は東南アジアなどへの輸出がほとんどだったため、現地の人にも親しみやすく、神聖視されている象を採用したのも理由の一つであった。

これを市川兄弟商会の商標に決めた。輸出用には象に王冠をのせ、「ELEPHANT & CROWN」として商標登録をした。華商との取引も順調に拡大し、象のマークは続々と海を渡っていった。

商標の変遷

商標の変遷