象印 ZOJIRUSHI

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戦後第一号製品「ポットペリカン」を販売開始1948 (昭和23)年

戦後、わが国の魔法瓶工業は民間指定品目に加えられたこともあって、再建されたのは早い方であった。1945(昭和20)年10月、銀三郎は田辺町の家で魔法瓶の修理事業を再開し、本格的に魔法瓶工業が立ち上がれる日が来るのを待つことにした。修理に使用する中びんはほとんど空襲で焼失しており、仕入れは難しかったが、手持ちのものがあったり意外なところから出てきたりで、何とか営むことができた。修理事業はそれほど大繁盛したわけではないが、お客様には好評で喜ばれた。それに、なんとか魔法瓶につながりをもって過ごしていけることが、銀三郎にとってはなにものにも代えがたい生きがいになっていた。

1947(昭和22)年3月、修理屋を閉店し、新しく組立業再開に踏み切る準備を進め、南区高津に「市川兄弟商会」の看板を掲げ、金属加工部と組立部を開いて高津工場とした。プレス機を主体として設備した、金属外装と魔法瓶組立の工場とし、外装と組立を主体とするメーカー志向の出発であった。また、製品は最初は携帯用魔法瓶とするが、早急に家庭用の卓上型ポットに切り替える方針であった。

これらの方針は、銀三郎の長男・重幸の考えが大きく反映されていた。彼は、本当の魔法瓶の使い方は、家庭で使用する卓上型ポットにあることを中国からの帰国者などから聞き、いずれ海外生活者が大量に引き揚げてくると、ポットの普及率が増すであろうと考えていたのだ。

翌1948(昭和23)年、卓上用ポットが完成した。戦後第一号製品である。蓋、肩、胴、底は真ちゅうクロームメッキ、ハンドルはダイカスト製、頭部の形がペリカンの“くちばし”に似ていることから、のちに「ポットペリカン」と名づけられ、1948(昭和23)年から1956(昭和31)年までの長期にわたって市場に出ていった。
この古典的な風雅なポットは、1988(昭和63)年に復古調の波に乗って、ふたたび市場に出て人気を得た。

高津工場でまほうびん組立てを視察する
市川重幸社長
「ポットペリカン」