まず熱中症予防の大切さについて学んだ後、夢先生の西田さん、アシスタントの梅田さんと一緒にジェスチャークイズを行い、
夢先生と打ち解けてから授業がスタートしました。

小さいけどすばしっこい西田さんに、お父さんがラグビーをすすめてくれた

西田さんはお兄さん、お姉さんと2人の弟がいる5人兄弟。お父さんお母さんと7人一緒に福岡県で暮らしていました。小学校の時、西田さんは一番背が低かったのですが、足は速く体育が得意で、サッカーをしていたそうです。そんな西田さんがラグビーを始めたのは中学生の時。入学した中学校にはサッカー部がなく、お父さんが、小さいけどすばしっこくてやんちゃだった西田さんにラグビーをすすめてくれたそうです。

ラグビーを始めた時、西田さんはとにかく怖かったそうです。背が低かったので人とぶつかるのが怖いし、先輩も監督も怖い。痛くて怖くてついていけるか心配だったのです。しかし、西田さんは少しずつ上手くなって、中学2年生の時には試合に出られるようになり、3年生の時には九州代表にもなれました。足が速かったので当時の監督や他の学校の人にも認められたのです。

進学を控えた西田さんは、まずラグビーが強い私立高校に合格しましたが、家の近くにある別の高校を目指していました。その高校はラグビーができて勉強もできる高校で、西田さんはがんばって勉強しましたが、残念ながら合格できませんでした。西田さんはすごく落ち込みました。泣きべそをかきながら家に帰ると、お父さんから「落ちたのはしょうがない。ラグビーが強い私立高校に行って、そこで思い切りラグビーをがんばりなさい。」と励ましてもらいました。そのおかげで、西田さんはラグビーの強い高校に行ってがんばることを決心できたのです。

ラグビーの強豪校であきらめず努力し、ついにつかんだレギュラー

西田さんが入学した高校のラグビー部は全国大会に出場するほどレベルが高く、部員はなんと120人もいました。中学校の時には「自分が一番」と思っていた西田さんですが、高校に行ってみるとなんと自分が一番下手で、6軍や7軍でした。しかも、1学年上には同じポジションの高校生日本代表の先輩がいました。もちろん同級生にも同じポジションにライバルが4人。みんな西田さんよりうまい九州代表のレベルです。西田さんは練習に行ってもレギュラーになかなかなれず、ボール拾いだけの日もありました。「ラグビーをやめようかな。」と思ったそうです。

しかし、西田さんはそこでやめませんでした。お母さんと弟が西田さんをがんばらせてくれたのです。お母さんは、西田さんが練習の後、夜の9時や10時に帰っても起きていて、温かいご飯を用意してくれました。朝も学校に行く時には、体の小さい西田さんのために2つ分のお弁当を毎日用意してくれ「がんばりなさい」と支えてくれました。弟は、西田さんが高校に行ったときに「お兄ちゃんみたいになりたい。」と、中学校でラグビーを始めました。西田さんは、ここであきらめたら格好が悪いし、家族にも申し訳ないという気持ちになり、支えてくれる家族のためにもあきらめずにがんばろうと決めました。そしてこの時初めて、西田さんは明確に夢を持ったそうです。それは、「レギュラーになってテレビに出る。」ことです。テレビに出たら、田舎のおじいさんおばあさんをはじめ小学校の時の友達も見てくれると、強い気持ちを持ちました。

そのために西田さんが取り組んだことは2つ、「一番の練習量」と「ラグビーノート」です。一番下手だった西田さんは、チーム練習が終わったあとみんなが帰るまでパスの個人練習をしました。また「ラグビーノート」には、監督、コーチ、先生から教えてもらったことや、先輩やチームメイトの良いプレーのことを忘れないよう記録したり、ラグビーに関する新聞記事を貼ったりしました。この2つを夢に向かって毎日コツコツ3年間続けました。

その結果、西田さんは最後の全国大会でレギュラーになってテレビに出ることができました。準決勝に出場しトライも決め、夢をかなえることができたのです。実は、西田さんは最後の全国大会が始まるまでは控え選手で、ぎりぎりまでレギュラーではありませんでした。しかし、3年間コツコツやってきたので、全国大会の1回戦、勝利の可能性が高くなった後半で出場するチャンスをもらえたのです。西田さんは、最後の最後まであきらめずにプレーし、今まで練習でがんばったこと全部を出すことができました。チャンスをのがさず思い切りプレーしてレギュラーをつかむことができたのです。

大学ではチームの初勝利が新しい「夢」に。そしてめざすはラグビー選手

高校を卒業した西田さんは、家族と離れ東京の大学に進み、ラグビー部に入りました。高校の時に全国で準優勝したので、大学でも大学選手権に出場して活躍したいと考えていました。ところが大学のラグビー部の部員はたったの24人しかおらず、1チーム15人のラグビーでは部内の紅白戦も出来ません。まだまだ勝ったことがない弱いチームだったので「勝てなくても楽しくやればいいよ。」と多くのチームメイトが考えていました。

高校の時の壁は「西田さん自身がチームで通用しない」という状態でしたので西田さん自身がコツコツ努力して夢をかなえましたが、大学ではそうはいきません。西田さんが一番うまく、1人でがんばっても残りの14人ががんばらなければ試合に勝つことも無理なのです。西田さんはまたあきらめかけてしまいます。

しかしこの時も、そうはなりませんでした。東京の大学に行かせてくれたお父さんお母さんをはじめ、高校を卒業した後すぐ働き始めたお兄さんや、自衛隊の看護学院にすすんだお姉さん、そんな家族のおかげでラグビーを続けられていることを、西田さんはもう一度しっかり考えたのです。家族のためにもあきらめないで、弱いチームでも夢と目標をもってがんばろうと決心しました。西田さんの2つ目の夢は「今まで勝ったことのないチームを初勝利に導くこと」と、西田さん本人も「ラグビー選手になること」になりました。西田さんの大学からラグビー選手になった人はまだいなかったのです。

そこで西田さんは、やる気のない部員にも「練習をがんばろう、ライバルの大学に勝とう。」と声をかけ、厳しい練習をします。その時に大切にしたのが、「個性、強みを伸ばすこと」でした。チームは弱いけれど、ひとりひとりに持ち味があったので、足を使ったり、パスを使ったり、自分たちの強みをいかしたチームになるため、仲間たちと一緒にコツコツ努力を積み重ねました。その結果、初めて大学の公式戦に勝ち、キャプテンをしていた西田さんはチームメイトから胴上げをしてもらうことができました。そしてラグビー選手にもなれ、夢をかなえることができました。

西田さんから「大切なことは2つ。1つはみんなを支えてくれる人たちのために、簡単に夢をあきらめずがんばる気持ちを持ってほしいということ。もう1つは強みや個性を伸ばすこと。速い足を活かしてラグビー選手になった私のように。」とメッセージがありました。そして今、ラグビーの指導者になった西田さんは、西田さんでもなれなかったラグビーの日本代表選手を育てる、という夢を追いかけています。最後に西田さんは「みんなと年ははなれていますが、まだまだあきらめずに夢を追いかけていくのでみんなも一緒にこれからがんばりましょう。」と強く話してくれました。