お米の研究
「ごはんのおいしさ」とは何なのか。
根源的な疑問を突き詰め、その原理原則を追究する。
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プロフィール
辻井良政 先生
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1974年兵庫生まれ。島根大学大学院農学研究科を修了し、研究員として食品メーカーへ就職。東京農業大学と共同研究を行う傍ら、論文を執筆し博士号を取得する。2014年に東京農業大学 准教授、2018年には教授に就任し、ごはんのおいしさの原理原則を解明するべくチャレンジを続けている。専門分野は食品化学。
「おいしいごはん」って何だろう?
小さな米粒の中に、未知数の可能性。
ー先生は、ごはんのおいしさについて研究されていますが、
そもそも「おいしい」とは定義できるものなのでしょうか。辻井先生ごはんのおいしさを構成する要素には、甘み、粘り、硬さ、粒の大きさ、香りなどがありますが、「おいしい」とはとても主観的で曖昧な感覚なので、一つに定義づけすることは難しいですね。私がおいしいと感じるごはんを、誰もがおいしいと感じる訳ではありませんから。人は食べ慣れているものをおいしいと感じやすいため、地域差や年齢、食習慣や食経験などの違いによって好みのお米の品種や炊き加減が異なります。さらに、同じ品種でも新米と古米、その年の気候条件によっても差があるので、この品種が、この炊き方が「おいしい」と断定することができないのです。
ーでは、どのようにして
おいしさの研究を進めるのでしょうか。辻井先生一つの基準にしているのは、粘りと硬さのバランスが日本人の味覚に一番合うと言われている魚沼産のコシヒカリです。コシヒカリを"おいしいごはんの基本"とし、その成分を分析することで他のお米をコシヒカリに近づけるための育成方法や、コシヒカリとは違った個性を持つブランド米づくりなどさまざまな研究に活用します。
ただし、ごはんの理化学的特性値や含まれる化合物を分析しても「この数値が高いから絶対においしいごはんになる!」といった具体的なメカニズムはまだ分かっていないのが現状です。小さな米粒ひとつの中に、まだまだ知らない秘密が隠れている。その秘密を探り、おいしさを解明することをめざして日々研究しています。
用途に合わせた「おいしさ」をつくる
ごはんにもTPOがある。シーンに合わせた
おいしいごはんを、科学的に解明したい。
ー先生の研究は、
私たちの生活のどんなところに関わっているのですか。辻井先生食品や家電メーカーとの商品開発や共同研究を行っています。例えば、コンビニのおにぎりに使うごはんは冷めても固くならないこと。炊飯ジャーで炊くごはんは、炊きたてのときにふっくらとして粘りがあること。さまざまな用途に合わせた「おいしいごはん」を一緒につくっています。炊飯ジャーを開発するにしても、象印マホービンと他のメーカーでは求めるおいしさは異なるので、各メーカーがおいしいと思うごはん、メーカーとしてめざしたいごはんのおいしさを知ることが開発の第一歩です。
ー「食べておいしいと感じる」ことが先で、
それが「なぜおいしいのか」を後から解明していく、
ということでしょうか。辻井先生そうですね。普通、商品をつくるときは搭載したい機能やスペックを先に決めるのが一般的なのでしょうが、「おいしさ」を追究する調理家電や食品などの場合はその逆。まず、人の視覚・味覚・嗅覚といった五感を用いた官能試験によって、メーカーが求める「おいしいごはん」を提示してもらいます。それから、粘りや硬さはどの程度か、香りはどうか、そのためにどんな炊き方が適しているか…などさまざまな観点からそのおいしさがどのような要素で構成されているのかを科学的に解明します。
ー生産者の方と関わることもあるのでしょうか。辻井先生もちろん、ごはんのおいしさには品種や産地、栽培方法などが大きく影響するため、現場でのフィールドワークは欠かせません。また、品種改良した稲を農家の方に育ててもらって、育てやすさや収穫量など生の声を伺い、研究に反映しています。
辻井先生のつながりのWA
農家もメーカーも研究者も、立場が違ってもごはんへの熱意は同じ。
ー辻井先生は研究のほか、農家や研究者をつなげる取り組みもされていますよね。辻井先生東京農業大学の"稲・コメ・ごはん部会"ですね。これまで生産者同士や研究者同士など横のつながりはあっても、生産者とメーカー、研究者と流通の方など役割が違う人との交流の機会はなかったので、業界全体の活性化のために2015年に発足しました。毎年交流会や情報交換会を開催して、私たち研究者が登壇して研究内容を報告するのはもちろん、流通やメーカーの方、おにぎり屋さんを営む経営者などごはんに関わるさまざまな立場の方が、取り組みや工夫、課題などを伝え合っています。他にも、出版社と一緒に子ども向けの絵本をつくって、小さい頃からごはんに親しめるような環境づくりも行っています。
ー研究をする中で感じる、
農業やごはんに関する課題は何ですか?辻井先生農業の担い手不足や気候変動などさまざまな課題がありますが、一番は「ごはん離れ」ですね。原因は、家庭内でのパン食や麺食などの選択肢が増えたこと。ひと昔前は、パンはパン屋さん、パスタやラーメンは外食が一般的でしたから。これからは、たくさんの選択肢の中でいかにごはんを選んでもらえるように工夫するかが重要です。
ーどうすれば米食の需要が増えると思われますか。辻井先生家で炊くごはん、コンビニのおにぎり、お弁当につかうごはん、レストランで提供されるごはんなど、食シーンに合わせたおいしさを高めていくこと。また、最近はどの産地、どの品種も質が向上して「おいしさ」が均質化しているため、各ブランドが特色を出して差別化を図り、ごはんの中での選択肢を増やすことも必要でしょう。
お米は日本で唯一自給自足できている主食ですから、ごはんの需要が増えることは、産地が活性化され、日本全体が豊かになることにつながります。そのためにもやはり、ごはんのおいしさの原理原則を解明することが急がれます。とは言え、20年研究していてもまだ分からないことばかりなのですが。
これからの「おいしさ」
日本人とごはんの歴史を紐解きながら、
新しいごはんのカタチを探している。
ー今後、研究したいテーマはありますか?辻井先生すでに取り組みが始まっているのですが、「そもそもなぜ、ごはんが日本で食べ続けられているのか」というテーマは興味深いですね。日本人は、稲作が伝来した縄文時代には玄米、その後精製するようになって黒米、そして白米と約2千年ものあいだごはんを食べています。これほど長い年月食べ続けられているのは、ごはんの成分と日本人の腸内環境や体質など、何らかの関係があるはずです。
また、ここ数年で玄米の栄養素が見直されていることにも注目しています。今後研究が進めば、"玄米の栄養"と"白米のおいしさ"を兼ね備えたごはんができる日もそう遠くはないでしょう。新しい品種をつくるには長い時間がかかりますが、皆さんがまだ知らないごはんのおいしさへの研究が、水面下で日々続いています。日本人と米食の歴史、新たな品種への挑戦、そして、私の研究の根本である「ごはんのおいしさ」とは何なのかという疑問に向き合い、日本人にとって大切な米食文化を、食品化学の観点から守りたいと思っています。